良書を読む

ある方から薦められて29歳の暮れに読んだのが最初で、それ以後3~4年に一度は読み直している本が「夜と霧」です。この年末年始に池田香代子翻訳の新版を読んだのですが、60過ぎてようやく気づけることがあるのだなと、人間の業や格について思いを馳せていました。

人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。(中略)ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

私たちは「生きる」という問いの前に立たされており、それに対してどう答えるかが、課された責務といことなのです。

特に子どもの頃はしなければならないことが大量にあるものです。でも、大人になれば選択肢が増えます。どのように生きるのか、時間とお金を、いつ、どこに投資/消費するかは自分で決められるのです。にもかかわらず、残念ながらこの自由をちゃんと活用している人は驚くほど少ないと思います。

マルクス・アウレリウスの『自省論』は、1800年以上昔の皇帝も、そんなことに悩んでいたのか、と思うと親近感が湧いてきますし、共感も覚えます。案外、人間は変わってないところもあるのだと思い、なんだかホッとしたりもします。

1800年の間、この本を読んだ人の数はものすごく多いだろうと想像ができます。それは中身が濃くて、他の人に読み継がれていってほしいと考えられてきたからではないかと思うのです。どんな感化を受けるかは人それぞれですが、そこにフォーカスするのではなく、時を超えて世界中の人たちがこの本(皇帝の日記)に何かしらの感化を受け続けてきたのです。これはすごいことだと思います。

50代に知った元HBS教授であるクレイトン・クリステンセンは、「人生を評価する自分なりのモノサシを持つ」ことが大事だと私たちに残した。自分の中にモノサシを確立して、それに基づいて人生を生きる。モノサシ、すなわち自分の行動基軸を持つことだと解釈しています。就活生には「軸」という表現を使ってもいます。

ストア哲学では、自分がコントロールできるものに意識を集中することを説いています。今この瞬間に集中。起きてしまった過去をくよくよ悩むのでなく、起きていない未来にビクビク怯えるわけでもなく、いま自分ができることに集中すれば、心を乱されることがなくなるという話です。おそらく、あなたもどこかで聞いたことがある噺ではなかろうかと思います。

「夜と霧」の著者フランクルが苦難に対峙(たいじ)する考え方は、ストア派哲学のそれと同様で、彼が強制収容所を生き延びられたのはまさにそういう考え方だったのではないかと思うのです。

例えば1944年にドイツの敗戦が濃厚になってきて、クリスマスには強制収容所からみんなが解放されるといううわさが所内に流れましたが、実際にはクリスマスが過ぎても解放されませんでした。その結果、うわさを信じて解放を楽しみにしていた人が、絶望して亡くなったという話が書かれています。将来への期待が、唯一の生きる希望だったからです。でも、フランクルはそのような根拠のない期待は持ちませんでした。限られた環境の中でも、今、自分にできることが何かあるはずだと考えたのです。それで強制収容所の苦難を乗り越えた。のです。

今回の「夜と霧」では、僅かながら理解力を高めた自分を感じることができました。おそらく、人生の経験を積むことで、躰の内に入ってくるものがこれまでとは違ったものでした。共感力は若い頃でも持っておりましたが、経験を積んでくると、自分と著者の感情がシンクロすることが多くなったようです。著者はこういう局面でこんな風に考えたのか、といったことが深く理解できるようになってように思います。

ストア派哲学の言うように、自分にコントロールできることとできないことはそんなに明確に分けられないだろう、現状追認ではないのか、と言う人もいます。批判しようと思えばいくらでも批判できるとは思うのですが、フランクルは実際に自分が苦しかった時にどういう考え方で生き延びられたかを書いているのです。そして、この本は出版後世界中で、現在も読者を増やしています。29歳の暮れに悩んでいた当時の私にとっては、希望を与えてくれた人生の一冊で、以後30年大切にしている一冊です。

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